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Stay hungry, stay foolish. 〜スティーブ・ジョブズさんへ

4月3日号の日経ビジネス「ひと劇場」にて、スティーブ・ジョブズ氏が『娯楽業を変えるカリスマ』として、取り上げられている。

この中で、米スタンフォード大学卒業式のスピーチが引用されている。
このスピーチは本当に感動的で、毎日流れていく時間の中で、つい忘れてしまいそうになる気持ちを思い起こさせ、何度読んでも身震いがする。

インターネット上を瞬く間に駆け巡り、既に知っている方が多いだろうとは思うが、自身の備忘録として、また今置かれている状況を見直すために、全文を掲載する。


大変素晴らしい翻訳をされた、市村佐登美さん、メルマガに掲載して配信した、とむさとうさんに、そしてブログでの無料掲載許可のご英断に感謝します。

ジョブズの卒業祝賀スピーチ
2005年6月12日、スタンフォード大学
原文URL:http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。

 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。

 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

◆◇◆


 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

◆◇◆


 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

◆◇◆


 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。


 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

◆◇◆


 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。

 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

◆◇◆


PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

◆◇◆


 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、“The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。

「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。

それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。
「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。


The Stanford University Commencement address by Steve Jobs
CEO, Apple Computer
CEO, Pixar Animation Studios

スタンフォード公式URL&録画映像
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/videos/51.html
http://news-service.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

translated texts here are copyrighted to the translator,
**satomi ichimura

転載サイト:ジョブズの卒業祝賀スピーチ


Person * 05:32 * comments(32) * trackbacks(0)

シンフォニーを紡ぎだすアレンジャー 〜佐野元春さんへ

佐野元春 & THE HOBO KING BAND 2006 TOUR 「星の下 路の上」
『有楽町で逢いましょう。』と銘打たれたツアーのファイナルに参加。

幾度となく彼のライブを観てきたが、これまで以上にとびっきりのライブだった。

17歳の頃に彼に初めて逢ったのは、真夏の横浜スタジアムだった。
あれから15年以上が経過したが、いつも変わらずステージにあるのは、オーディエンスへの感謝とライブであることの意味とその証明だ。

昨夜のライブは、何よりプログラムが秀逸だった。
演出そのものは、いつもと同じように、特別に華美な飾り立てがあるわけではないが、それゆえに“構成”だけで、これだけオーディエンスを引き込むのかと、シンプルなパフォーマンスの力を垣間見た気がする。

今回はライブの位置づけ的に、'80年代、'90年代の往年の楽曲がこれでもかと詰め込まれていたから、オーディエンスを熱狂させるのに充分なものではあった。ただ、だからと言って、彼は安易にそれらの楽曲をパッケージされたCDと同じ音源で届けるわけではない。

今回だけではなく、佐野元春氏のライブに参加するたびに感じることは、そのアレンジの巧みさにある。

まるで新曲のように聴こえる、そのアレンジこそが、今日の日に『聴きなれた楽曲』との新たな出合いがもたらされる、という“ライブの意味”をオーディエンスの心に届けてくれるのだ。

そこには、聴いた者の安心感といった、郷愁などによる“つまらない”担保を押しのけてなお、真摯に自身の生み出した楽曲と正対する、怠惰なき彼の探究心が透けて見える。

そして、それはまた彼が一人のソロ・アーティストでありながら、独りではない「バンド」という形態を崩さずに、常に仲間としての「THE HEARTLAND」や、「THE HOBO KING BAND」と共に作り上げてきた、音作りの本質的なアプローチに由来するのではないだろうか…。


幾重にも重なる音の調和を、美しき交響曲(シンフォニー)として紡ぎだす、佐野元春氏のアレンジャーとしての魅力に、気がつくとライブへ足を運んでしまう、わたしがいる。


追記:やっぱり丸山さんもこられてました。


PS.
今回は、「99ブルース」〜「インディビジュアリスト」のアレンジに打ちのめされてしまった。


MWS(Moto's Web Server):MOTOHARU SANO OFFICIAL WEB SITE



Person * 04:42 * comments(46) * trackbacks(6)

プレッシャーを餌にする猛獣 〜亀田興毅選手へ

亀田三兄弟の長男、『浪花乃闘拳』興毅選手が世界前哨戦に勝利した。

メキシコのWBC世界フライ級13位 カルロス・ボウチャン選手との一戦。
6R:2′20″ボディーブローでマットに沈め、KO勝利を収めた。

ここのところ、何度となくTVで特集が組まれ、ボクシングへの取り組みや三兄弟のストイックさが放映されている。勿論、ボクシング中継への興味喚起という点はあるにせよ、その人間性に迫る内容が多いのが特徴だ。

亀田興毅選手は、幾度となく「20歳までに世界チャンピオンになる」と公言してはばからない。その過度なプレッシャーは、自身を追い込むことでパフォーマンスを引き出すのと同時に、意気込みだけが空回りする危険性がある。

であるにも関わらず、彼は自身に対しても、そして相手選手に対しても、そのような言動をやめはしない。

彼は、自分がどう見られているのかをよく知っている。
そして、どのような言動が耳目を集め、どのように影響するのかを、身に着けてきているように思う。

つまり、前エントリーのイチロー選手と同じように、パーソナル・ブランディングされた、確固たる自分を持っているからできることなのだ。
そして、それは父の愛と過酷な練習に裏打ちされた“自信”があるからこそ、揺るがないのだろう。

彼ら三兄弟が観客を魅了するのは、若者が持つ反骨の精神といったものと無縁ではないだろう。
フリーターやニートといった、適度に格好のよい言葉に括られる人の無気力さには、次代を担っていく若者としての何かを感じられない。

しかし、時に暴言を吐き、世界に立ち向かい、そしてその暴言すら(自分のための正解として)実証してしまう彼の存在に、期待を寄せる“何か”が観客の心理にはあるのだ。


話はそれるが、これは企業活動におけるブランディングに酷似している。
ブランディングにとって必要なことは、徹頭徹尾『約束』の遂行である。

そのブランドを通して、どんな価値を提供するのかを約束して、それを遂行し、応え続けることが、ブランドを育てていく。


自分への期待やプレッシャーはよく分かっている。しかし、得たいの知れない誰かによるプレッシャーはコントロールすることが出来ない、恐怖の存在となりえる。
そうであるなら、誰かに期待されるという感覚を捨て、見ないことにするには、自らより高いプレッシャーをかけるほか無いのかもしれない。

彼が20歳までに世界チャンピオンになるには、11月17日までの猶予だ。
そして、世界のベルトを父に手渡したとき、亀田ブランドは産声を上げる。


亀田兄弟オフィシャルホームページ



Person * 18:24 * comments(59) * trackbacks(3)

イチロー選手のプロ論

TBSで放映された『誰も知らない素顔のイチロー』を観た。

今回の様々なコメントでも、イチロー選手のプロフェッショナルとしての感覚は、より研ぎ澄まされ、一点の迷いや曇りがない状態に見えた。

ここ最近のイチロー株は上昇している。
世の中の論調では、松井選手への落胆とイチロー選手への賞賛で、ほぼ一致している。
これは、今年初めて開催される野球の世界大会『WBC(World Baseball Classic)』への参加、不参加によるものだ。

イチロー選手は、何のためらいもなく、日本代表としての参加要請に応えた。
それは、常にファンのことを忘れない、プロフェッショナルとしての論理だろうと思う。
日本球界に限って言えば、その人気は凋落の一途をたどっている。長らく、国民の娯楽として君臨したスポーツだが、今は見る影もない。

MLBで活躍するイチロー選手にとっても、身につまされることであるようだ。
自分を見守り、育ててくれた日本プロ野球への思い、ファンへの感謝の気持ちに応えることこそ、自分がしなければならないこと。
彼は、自分がどう見られ、自分の行動がどう影響するのかをよく知っている。
これこそ、プロとしてのパーソナル・ブランディングのあり方だろう。


翻って、サッカーの日本代表には、選ばれたい選手は大勢いるが、ケガなどで活躍できないと思われる、よほどの理由がない限り、それを辞退することはない。

ここに、根本的な問題も見え隠れしている。

WBCに魅力があるのか、日本代表に誇りがあるのかどうかという問題だ。
W杯には、サッカー選手の羨望と夢がある。このピッチに立つことは、何にも代えがたい魅力と自己実現の最高の形がある。
そこに到達していないWBCという大会の弱さ、魅力の乏しさも否定できない。

とはいえ、イチロー選手の決断に、それらの因果が判断材料にならないという点で、この件は既に意味のない議論かもしれない。

「参加を辞退する理由が僕にはない。参加しない人の気持ちが理解できない」

彼は、てらいもなくそう言った。
お金や名誉のためではなく、プロとしてのあるべき姿、信念、プライド。

これを“究極の美”たらしめる彼の挑戦は、今後もより多くの人を魅了し続けることだろう。


World Baseball Classic (MAJOR.JP)



Person * 03:51 * comments(10) * trackbacks(6)

奮い立つほどの“美” 〜荒川静香さんへ

イタリア歌劇「トゥーランドット」に観衆は酔いしれた――。

柔らかにそして、魅せる演技に、会場がスタンディング・オベーションで迎え、最大の賛辞を贈る。誰の異論もなく、金メダルを得るに相応しい演技だった。

先のエントリー
「他を寄せ付けない女王の美しさを魅せつけて欲しい」と書いた。
誰よりも美しく、そして魅せる演技にこだわり続ける荒川静香さんの真骨頂『イナバウアー』に、その想いは結実した。

加点形式による、新採点方式ではこの技に得点はされない。
けれど、あえて必要な得点だけを追うのではなく、全体をレイアウトし、そして自分のアイデンティティを鼓舞するように、優雅に舞ってみせる。


  「点数を取ることも大事。
   だけど、ポイントにつながらなくても人が喜ぶことをどうしてもやりたくなる」


荒川さんの言葉には、自分の演技だけでなく、自身が愛するフィギュア・スケートそのものの魅力さえも、伝えようとしているかのようだ。

開会式でイタリアの至宝パバロッティによって、「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」が唄われた。

はからずもその曲にのって銀盤を舞う。
「クールビューティー」と評される"美"の魅了。
荒川静香さんは、世界一のヒロインになった。


荒川静香 Official Web Site



Person * 21:54 * comments(67) * trackbacks(10)

ひたむきさが成しえること 〜岡崎朋美さんへ

女子スピードスケート500mで、岡崎朋美さんが笑顔を見せた…。


メダルを取るものだと思って、書き始めた。
けれど、残念ながら4位でレースを終え、メダルには届かなかった。

34歳、4度目のオリンピック。
本人は年齢のことばかり言うメディアに少し辟易していたようだが、何より16年に渡って日本の代表として、第一線で活躍し続けることは、フィジカル、メンタル、そしてモティベーションを維持することすら難しい現実の中、本当にしぼまない情熱を持ち続けることに感動を憶える。

常に勝ちと負けの狭間にあるプレッシャーとそこに向かうコンセントレーションとに打ち勝たなくてはいけない。

「人間に限界なんてないんじゃないかと思う…」
インタビューに答えて、岡崎さんは言った。
そこにある自信と、そして隣り合わせの不安を打ち消す鼓舞があった。

ひたむきにスケートと向き合い、スケートを愛すものの美しさ。
年齢を重ねても、メダルに届かなくても、
変わらず可愛い"朋美スマイル"がそこに見えた気がする――。


Dear! TOMOMI OKAZAKI−岡崎朋美選手応援ページ



Person * 03:17 * comments(62) * trackbacks(12)

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